零式艦上戦闘機二一型(改) 53−122

 

 ラバウル航空隊の残りの253航空隊に所属。

ラバウル基地に残された多数の破損機の部品を集めて再生された。

しかも、偵察、爆撃が行えるよう、複座に改造され、後部座席下には、偵察写真撮影口

も開けられている。

昭和20年1月9日、吉沢徳三上飛曹が操縦して、アドミラルティ諸島を偵察した帰りに

ニューブリテン島ランバート岬沖で撃墜された。

その際、残念ながら吉沢徳三上飛曹は戦死したようだが、引き上げの際に遺骨等

は発見されなかったようである。

昭和47年8月,オーストラリアのペントランド氏によって引き上げられた。

メルボルンに新しく作る航空博物館の展示機候補であったが、同博物館が資金難で

潰れたため、売りに出された。

これを、元日大理工学部教授石松新太郎氏が購入し、国立科学博物館に寄付した。

その後長い間、国立科学博物館に展示されていたが、最近になり展示品の入れ替え

のため、展示から外されてしまった。

現在この機体は残念ながら、国立科学博物館には展示されていない。

幸いにして、筑波のある倉庫で室内にてカバーもかけて保管されているようである。

このまま、鉄くずにされる心配はなさそうである。

早急に再度展示されることを願っております。

昭和51年5月14日 撮影

当時中学生だった私が撮影した写真です。
中学の修学旅行で、国立科学博物館へ行きました。
本物の零戦を見たのは初めてだったので、感動しました。

何分古い写真なので、だいぶ変色してしまいました。

中学時代、写真部で白黒の引き伸ばしなどを自分で
やっていたので、白黒も撮影しました。

彩雲さんのホームページよりお借りした。

波戸場氏撮影の写真である。
平成8年9月25日撮影
http://www.asahi-net.or.jp/~la3k-kmt/astroboy/hatoba/hatoba1.html

 

以下、岩本徹三著 「零戦撃墜王」より抜粋する。

岩本徹三氏は、昭和19年まで、ラバウルの防空を行っていた。

しかし、2月18,19日にトラック島が攻撃され、ラバウルに補充される予定

だった零戦が200機以上破壊されたため、ラバウルよりトラックへ後退した。

その後、6月14日まで、トラック島の防空を行った。

いよいよ、飛行機が不足となり、本土へ補充のため帰還することとなり、

6月14日にテニアンへ立ち寄っている。

「一航戦の全機は敵の比島方面の進撃を防ぐべく配備された。サイパン、テニアン

はわずかの整備機を残すだけでがら空きの状態となる。

広いテニアン飛行場はがら空きで、隅の方に破損した飛行機十五、六機が捨てられ

ている。これがすべて真新しい物で、修理すればまだ使用できそうなものばかりである。

”虎”、”豹”部隊が訓練中に壊したものであろうが、ラバウル、トラックの整備員なら、

二日もかからぬうちに立派に修理してしまうであろう。」

その後、夜間飛行の自信が無いという一式陸攻の操縦士を説得して、夜のうちに

木更津へ向かって出発したようである。

そう、グアム、サイパン、テニアンは翌6月15日よりアメリカ軍の攻撃をうけ陥落した

ので、夜のうちに出発して正解だった。

POFの61−120やスミソニアンの61−131は、そう261航空隊”虎”部隊の所属機

であった。主力がフィリピン方面へ行った残りの機体だったわけである。

>ラバウル、トラックの整備員なら、二日もかからぬうちに立派に修理してしまうであろう。

これまた、その通り、残骸寄せ集めで、稼働機を作りあげ、しかも複座への改造と、

ラバウルの整備員、恐るべし。

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